とにかく
inspirativeな空間でした。
あたしは、もしかしてとんでもないものに
立ち会えてしまったんではないだろうか。とか。
今回の舞台は
法然院の方丈(英訳にGuest Roomとありました)。
京都のお寺は比較的いろんなアーティストに建物を解放しているのだけれど、
ここは特にアンビエント系のイベントによく使われているかな。
方丈は障子・ふすまをほとんど取り払ってあって柱と屋根だけ。
その障子のところに小ぶりの3面のスクリーンが展開されている。
緑の鮮やかなお庭がスクリーンの向こうに広がっていて、完全に借景状態。
教授の機材机(これがまたふつーのパイプ机にラップトップとipodが並んでいた)の
真ん前が空いていて、ラッキーとばかりにそこに座り込んだ。
少しだけ隣に座った人と言葉を交わす。畳の上で座り込んでいるからこそできることだわ。
ちょうど日が暮れゆく時間帯で、夕暮れの朱色が少し闇に溶かされるあたりで
おもむろに教授と高谷さんがやってきて、ライブが始まった。
自然音の風のせせらぎの中に、微かなノイズがふわりと漂ってくる。
小さな光の点がスクリーンに現れ、それがぱん、と弾けるような動きに
ノイズもわずかにぱん、と弾けて、かこん、とししおどしが鳴る。
…って、ししおどし、
庭にあるよ(当たり前
その当たり前のことをわざわざ座っているところから身を乗り出して
確認しないといけないくらい絶妙のタイミングで鳴らされてしまって少し呆然。
そのノイズがふわっと膨らんだところにそれまで光の点だけだったスクリーンに
映像が重なってきて、ワルツの断片が流れてくる。
…あー、これ、聞いたことあるワルツ!
オリジナルじゃない…なんだろう。アルヴォ・ペルトか…も?(←全然自信なし)
細かく繰り返されるノイズと音の断片は、少しミニマルミュージックを想起させる。
(もともと教授の音楽ってミニマル的な要素を持つものも多いけど)
そこに混ざってくる自然音は、風の音にしても、蛙の泣き声にしても
やっぱり一定の周期を保った繰り返しから成る音であることが多く。
スクリーンに映し出される映像も、やはり3面で細かなずれを出しながら
寄せて返すように繰り返される。この辺の手法はレイさんのライブでも見たなー。
その映像のズレは時間感覚を鈍らせる何かがあって、
少し現実から浮遊した空間にすっと足元を掬われる。
ぅわ、と思ったときには意識は畳の感触を捕らえていなかった。
そのままピアノ曲の断片が聞こえてきて、
すごく不安定なノイズと一緒にめまぐるしく映像が変わる。
それまで正座状態で聞いていたあたしだけれど、
あまりに不安な音の固まりに思わず足を抱えて小さくなる。
それは、少し昔の記憶と混ざっていた。
自分の正面にいたのは、地震直後の自分だ。
あのときの混濁のイメージは不安定なノイズと結びついていて
思わず映像から目をそらした。
かこん、とししおどしの音が鳴ってはっと気づくと、
やっぱり自分は畳の上で。
ぐぇこぐぇこ、と蛙の鳴き声に安心して、思わずはぁ、と
胸の中にとどまっていた空気を全部吐き出してまた前を見つめる。
ひとつ、ふたつと大きく息をした時には
穏やかなピアノの音に光の羽虫たちがぱたぱたとスクリーンを飛んでいて
そのまま静かにフレームの外に飛び出ていったときには
音はすぅっと空気の中に溶けていった。
たぶん、あまりの偶然が交錯しあう一瞬を聞き逃すまいとしていたのか、
自分は聞いている途中からものすごい緊張状態にあったのだろう。
拍手をし終わったときに、完全に気が抜けてその場から立ち上がれなくなっていた。
ふと座り込んだまま後ろを見ると浅田さんとか柄谷さんが見えた。
そこに混じって女優の
鶴田真由さんが来ていたのはちょびっとびっくり。
目線のあたりにあった教授のラップトップにはステッカーがぺたぺた。
なんとなく微笑ましい貼り方で思わず唇がほころんだ。
ふと目を移すと、なにげに高谷さんと坂本さんが飲んでいたペットボトルが
畳の上に見えて、ウリベートだったことにちょびっと親近感を感じたり。
ようやく立ち上がれるようになって
高谷さんと教授のお二方それぞれに握手をしていただいた。
教授の手は、自分が思っていたのより小さかったのが印象的。
すごく自然な佇まいの方でした。
ほわん、とした音の余韻を持ったまま、外に出て坂を下りていく。
ぼんやりと見えた市街の明かりに、なぜか誰かに会いたくなった。